應善寺について

本 堂・客 殿

本 堂 1階で椅子(法事時80席・葬儀時50席)
礼拝堂 2階で椅子(30席)
客 間 1階3部屋・2階3部屋(共に椅子)

本堂二階礼拝堂

本堂二階客殿

門徒会館(道向かい)

礼拝堂 1階(椅子で約30席)
客 間 2階(椅子で24席)・3階(座卓)

門徒会館入口

門徒会館礼拝堂1

門徒会館礼拝堂2

本堂・礼拝堂・門徒会館は、葬儀の斎場として、ご利用頂けます。

 

應善寺の沿革

應善寺は、浄土真宗本願寺派の寺院で、京都の本願寺(西本願寺)が本山です。
昭和5年、築地より現在地国立に寺基を移しました。

当應善寺の創建の年月については、幾度もの火災による記録の消失もあり、遺憾ながら現在これを詳らかに知り得ません。しかし開基住職の廓念 並びに 2代目住職了哲 が寛文年間(明暦の大火後10年以内)に亡くなっていることから、創建は明暦の大火以前であったと思われること、また「江戸八丁堀應善寺」と書かれたものがあることからして、横山町の浅草御堂の地中寺院であったと推定できます。

創建後間もなく明暦の大火があり当寺も被害に遭い、開基・2代目住職の苦難はどれ程のものであったでしょうか。浅草御堂の築地移転に伴い、應善寺も「築地別院」の地中寺院となって再建され、3代目住職了廓に至る3代に於いて寺院の基礎が定まりました。
明暦の大火以外にも、江戸時代には5度の類焼に遭っていますが、その都度再建を果たしてこられた歴代住職の苦心努力と門徒の協力に頭が下がります。

現在の本堂内陣の様子

大正12年、関東大震災後の東京都(市)の復興都市計画による区画整理(道路整備)の為、築地の地中寺院は移転を余儀なくされ、各寺院は移転先を探しました。当時應善寺の檀家総代、凮月堂総本店大住喜右衛門氏・上野凮月堂大住省三郎氏が、国立に箱根土地株式会社が分譲した土地を持っておられ、両氏の格段のご協力御芳志により、国立の現土地を御寄進下さいました。そのおかげで、昭和3年から移転の準備を始めました。應善寺第3代住職から第14代住職までの長い時代を過ごした築地から寺が移転する困難はどれ程の事だったでしょうか。墓地の移転から始めて、本堂等の建物が完成したのは同5年9月でした。この4ヶ月前に14代了眼住職は逝去しました。1747年に凮月堂を創業された大住家は、現在は上野凮月堂の創業家が継ぐただひとつの凮月堂であり、應善寺開基以来、現在まで代々の檀家総代をされています。

移転当時の国立の様子ですが、應善寺の当時の番地は『東京府北多摩郡谷保村大字谷保小字拝島道北9411の15番地』でした。
国立駅は学園町を開発した箱根土地株式会社の堤康次郎氏が、客の誘致の為に建設しましたが、昭和4年3月、東京商科大学(現一橋大学)の学生のため朝夕の一部のみが停車し、他は乗降客がほとんどないので素通りでした。同5年4月に駅が開設となっています。
駅前は区画整理され旭通りは道幅も広く取ってありましたが、雑草で埋まり真ん中に人ひとり通れるほど踏み分けた道で、野うさぎが飛び出したりしていました。駅前には3~4軒のお店だけで家は全く無く、松林・くぬぎ林・雑木林が果てしなく続いていました。

そのような状況でしたので、先代の第15代住職松岡了宗は国家公務員の役所勤めを兼務しており、土曜日の午後と日曜日に應善寺の仕事に従事していました。
終戦後の昭和23年4月、新憲法による新しい地方自治制度に変わる画期的な初の選挙で、都道長官・府県知事・都道府県会・市区町村会の議員の選挙があり、住職の妻、松岡きくが村会議員の初の女性議員に当選しました。松岡きくはその後了宗住職と共に、国立市の文教地区指定に中心的な役割を果たしました。應善寺の門前にある国立市教育委員会が設置した案内板には、「昭和26年に起きた国立市の文教地区指定運動の際には、寺が一つの中心として市民運動を支えたことでも知られている」とあります。

現在の境内地の様子

戦後の世の中が落ち着いた昭和30年代、住職は役所に勤務していたため、講師を依頼して法話会を開始しました。この法話会を中心に御門徒の活動が始まりました。住職は35年3月に定年になり、寺に専念し法話会を毎月行いました。お参りが増え、当初からの本堂・庫裡では手狭になり、境内地整備に着手し、現在の礎を作りました。

・昭和41年 客殿庫裡・木造2階建て完成
・昭和46年 本堂・鉄筋コンクリート造り完成
・昭和51年 本堂2階に礼拝堂と客間を増築
・昭和54年 本堂屋上に鐘楼建立
・昭和55年 本堂屋上に三重の塔建立…この時から鐘を撞く(終戦の日・除夜の鐘)
・平成元年3月 15代了宗逝去

平成以後ですと、平成5年、現住職の伊藤寛之が16代住職を継職しました。また平成19年には、門徒会館が完成しました。
また、皆様が安心してお参り出来るよう、平成17年より数年をかけて 本堂・客殿・庫裏の耐震化工事を順次実施しました。